あの日のこと。覚えてること。

query_builder 2023/01/16
マインド

1995.01.17 5:46am


今覚えてること。

備忘録として残しておこう。


家がミシミシ音を立てながら、ぐるぐる回ってる。窓際に飾っていた、

UFOキャッチャーで親戚のお兄ちゃんがゲットしたぬいぐるみが落ちてくる。


揺れがおさまった。

一階で寝てた母親から、叫ぶように大丈夫か?と声がする。

当時両親は不仲で、一階と二階に別々に寝てた。


「大丈夫や、人形いっぱい落ちてきたー」と返事をしたら、すぐに余震。

きゃー!と言いながら、「人形どころやない!ガラスが割れてるからスリッパ履きなさい!」と、スリッパを階段の下から投げられた。


父親と弟は一緒にベッドで寝てた。

「家がめげるかおもた。」

めげる=壊れる。

父親がよく使ってた但馬地方の方言を思い出した。


部屋を覗くと、タンスが倒れている。

ちょうどベッドのヘッドボードに支えらるように倒れていたので、二人は無事だった。

ヘッドボードがなかったらちょうど寝てるところに倒れてたかもしれない。


スリッパを履いて一階に降りる。

階段の窓に置いてた花瓶が下に落ちて割れていた。

玄関の花瓶も全滅。先に洗面所に行ったと思う。

洗濯機の上に設置してた乾燥機が、ひっくり返っていた。


そこから台所へ。観音開きの食器棚は、ほぼ全開で全滅。

引き戸の中に入ってる食器は位置は動いてるものの割れてる数は少なかった。


観音開きは地震に弱い。

その時学んだ知識だ。


寒い。一月早朝の一軒家。そら寒いはずだ。

電気はつかず、暖房器具が使えない。

母親がガスは止まってないと喜んで、ガスコンロの火で暖を取り始めた。


あったかい。


テレビはつかないので、携帯ラジオをつける。

とにかく大きな地震だったことは分かった。


学校行けるやろか?バス動いてるかな?


そんな呑気なことを言ってたら、ラジオから、

橋が崩れている、道路が波打っていると聞こえてきて、

これは只事ではないことが起こっていると思った。


父親が三木の実家に電話をかける。

何度かかけ続けてようやく繋がった。とりあえず無事だと報告する。

母親は長田の実家になんども電話をかけるが繋がらない。

被災地神戸に住む人の安否をそれぞれが確認しようと、

電話は激しく混線してた。


ラジオから長田で大きな火事が起きてると聞こえてくる。

どうやら、地震の後、ガス管が破裂してるのに火を付けたのが原因らしい。

慌てて、ガスコンロの火を消す。

地震直後はガス管がヒビ割れてる可能性もあるから、

火を使ってはいけない。

これもこの経験で知った知識だ。

その後、ガスは一ヶ月ほど止まったままだった。


やっぱり電話は繋がらない。

母親の妹(叔母)から、やっと繋がった!!と、電話がかかってきた。

やはり長田の実家が繋がらないらしい。

叔母はその当時別居中で、明石に住んでた。

子供(私のいとこ)が心配でたまらなかったはずだ。


不安がどんどん大きくなる。

繋がらない、状況がわからないのが、一番怖い。


昼ぐらいだったろうか、父親が、直接安否確認してくると言い出して、

弟を連れて車で長田へ向かった。


そういやこの日は、何を食べたんだろう?

全く思い出せない。


電気は意外に早く復旧した気がする。

テレビで映像を見てあまりにもの被害の大きさに絶句したのを覚えてるからだ。


長田が燃えてる映像。

外に出て、東の空を見ると空が赤い。なんとなく煙臭い。


テレビを見ながら、不安げに待ってると、暗くなってから二人が帰ってきた。

東西に走る線路の南側が燃えていて、北側にあった母親の実家は、祖母もいとこともに無事だった。

特に、いとこが寝ていた部屋は、タンスとタンスが支えあって倒れ、

その間に寝ていたから助かったと聞いた。

そして、仏壇の弘法大師さんの首が転がっていたと。

お大師さんをいつもお参りしていた祖父が、

きっと助けてくれたんだなと言われ、

今でもお大師さんへのリスペクトは続いている。


とにかくひどい渋滞だったこと、炎の横を走って熱かったという、

父親と弟が「えらいこっちゃ」と興奮していた会話を覚えている。

今となって思うのは、こういう自ら安否確認で車を出す人が多かったせいで、

緊急車両が現場に向かえず、

多くの命がなくなったかもしれないということ。

何が正解だったか分からない。


電気と水は初日から使えたので、我が家はまだ被害が少なかった方だろう。

ただ、ガスが来ないということは、お湯が出ない、お風呂に入れないということ。

電気ポットで湯を沸かし、浴槽に溜めて水で薄める。

湯量は10cmあっただろうか?

すぐにぬるくなるから風呂の蓋をしめて、

顔だけ出してとりあえず身体を濡らした程度だった。

蛇口を捻ってもお湯が出ない。

ライフラインが繋がっているという、当たり前のありがたさに初めて気づいた。


震災後一ヶ月はお風呂難民。冬ではあったが、髪が洗えないのが一番辛かった。

三木の祖父母宅にお湯をもらいにいったり、30分ほど雪の降る中で順番を待って銭湯に行ったこともあった。

母親と山電(山陽電車)に乗った気がする。どこの銭湯に行ったんだろう。

垂水だったとは記憶しているが、その銭湯が空いていることも、どうやって知ったか分からない。

今なら検索すればすぐにわかっただろうに。


長時間並んでようやく洗い場に入ったら、お湯が浴槽の半分くらいしかなく、

まさに芋洗い状態だったけど、あの時のお風呂の気持ちよさは忘れられない。

お風呂に入れるって、なんて贅沢なことだったんだろうと思った。

それから1ヶ月は、お風呂をもらいに、友人宅や友人の親戚宅を回った。


「お風呂をもらう」


その時普通に使っていた表現だが、あれ以来使っていない。


学校の授業は、2月に再開になった気がする。

1月中は、線路を歩いて避難所となってる学校に行き、先生のお手伝いボランティアをした。

これが初めてのボランティア活動だった。

私たちが来春から入るはずの新校舎が、避難所として使われていた。

流れないトイレの消毒と、賞味期限が切れているパンを配った。


賞味期限切れでも食べられる。


当初は食糧も少なく、捨てるなんてもってのほかだった。

パンを食べると下痢をしちゃって、というおばあちゃんに、家から持ってきた、母が作ったおにぎりをこっそり手渡した。

本当はダメなことだろう。でも、私にできる最大限のことだった。


センター試験を終えたばかりの先輩達の対応もせねばならず、先生達は忙しそうだった。

中には、「家、燃えちゃった」と話す先輩が、学校に避難して来られていたのを覚えてる。

私は当時高校2年生。1年違うだけで、体験したことは大きく違ったと思う。


28年前の1月16日。

この日は成人の日の振替休日で、私は母親と修学旅行のスキーで使う手袋や帽子を買いに、

三ノ宮をうろちょろしていた。

そごうに行って、センター街に行って、まさか歩いたところが、翌日にぐちゃぐちゃになるとは思わなかったし、

修学旅行に行けなくなるとも思ってなかった。


色々覚えていることを書き出してみると、私、結構いろんな荒波を乗り越えて、

頑張って生き抜いてきたのかもしれないと思えた。

そしてこの震災をきっかけに、一皮剥けた気がする。


バブル崩壊後、なんとか踏ん張ってた父親の仕事も、

震災が最後のトドメとなり苦しい状況に追い込まれたと思われる。

震災当時の父親の歳は、今の私と同じ年齢だと、今計算して気づいた。


45歳、阪神淡路大震災を思い出す。


#阪神淡路大震災

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